私は子供時代、どちらかと言えば裕福な家庭で育てられた。そんな大層なものではなかったが、実家では祖父の代から町工場を経営していて、多い時には20~30人ほども従業員がいたように記憶している。もともとは大阪市内で機械の卸商を営んでいたようだが、戦中に大阪・堺市に疎開し、その際に小さいながら工場を建てて、鉄砲の弾などを作っていたと聞かされたことがある。だから戦争末期でも当時の軍から配給物資というのがあって、食料にも困ることはなかったようだ。
その時生産に使っていた機械は、終戦直後に進駐軍に見つかるとまずいということで、工場の向かいにあった池に放り投げて捨ててしまったこともあったようだが、戦後はその中でも残った機械で、プレス機械を作り始めた。鉄板などの板材を金型通りに成形する機械だ。それから高度成長時代を迎えて景気の良い時代が続いたが、やがて祖父は亡くなり、私の父が後を引き継いだ。今でも覚えているのは祖父の葬儀は、新しい工場で執り行われたのだが、とても盛大なものでお寺のお坊さんも10人近くいたのではなかったろうか。祭壇もとても大きなもので、弔問客は長い列を作っていた。
しかし、そんな景気の良い時代も長くは続かなかった。父は会社にいて経営に携わるより、銀行間を金策に走り回るようになり、それが常態化していった。当時はそんな父の姿を何とも思わずただ見て見ぬ振りをしていただけだったが、今ならその気持ちが痛いほどよく分かる。金策に走り回ることが仕事のようになっていて、会社の「経営」に十分な手を打てなかったのが悔しかったのではないだろうか。そんな父をなお追い詰めるように起こったのが、工場からの失火だった。火災の原因は工場の老朽化による漏電によるものだった。全焼だった。火災を見てうろたえている家族に、私が「失ったものはまたやり直せばいい」と分かったような口を聞いていたことも昨日のように思い出される。
火災の後始末には当時、就職して2年目ほどだった私も手伝った。その時に新聞記者を辞めて会社を継ぐ選択肢もあった。父にも相談したりしていたが、父は一言、「まだ大丈夫だから」と言っただけだった。私もその後、新聞記者としての仕事が面白くなってきたので、そちらの方で忙しく、その後は会社を継ぐ話もまったく途切れてしまった。今から思えば、私が入ったところで、何の助けになるわけでもなく、むしろ、父はそんな私の力不足を見抜いていたのだろう。私は父を、そして会社を助けることができなかった。
そんな父が亡くなったのは、それから10数年も後のことだ。晩年は会社も解散し、父はしばらく他へ働きにも行っていたが、やがて持病の心臓病が悪化して最後はひっそりと息を引き取った。特に病状が悪化してからは、息子として会話らしい会話もしていない。しかし、そんな父が一度、本当に喜んだ姿を見たことがあった。以前に会社で働いていた従業員が、別の会社に転職後、その会社の社長になって報告に来たときだった。それはまるで、自分の後任を見つけたような喜び様だった。私はそれをただ横で見ているだけだった。